― 病 ―
* * * * * * * * *





雨が降っていた。
窓をつたう雫のその先。
透明な私は不器用に
私へと近付いてきた。
私の顔を 指先がそっとなぞる。
キュウ、と 音がした。

は・・・。

私は雲って見えなくなった。

窓の外 風はないようだった。
雨はただまっすぐに――


* * *


おはよう。

その人はいつものように私に微笑んだ。
四角い眼鏡の奥 茶色い瞳が私を捉える。

おはようございます。

ドアを閉め、行儀良く頭を下げて挨拶する。
その人は どうぞ、と手で促し
私はもう一度軽く頭を下げてから 丸椅子に腰掛ける。
調子はどう とその人が聞き
とてもいいです と私は微笑む。
こうして繰り返す朝にさえ いつか馴染む日が来るのだろうか。


「イド?」
「そう、イド。心のエネルギーといった意味かな。
 心の奥深く・・・水を汲む井戸みたいだね」
「・・・」
「井戸の底には水がある。
 そして水を汲むための滑車や
 水を汲む順番などの決まりがある。
 あなたの井戸は、ちょっぴり水が少なかった。
 私はその水を増やす手伝いをするために、こうして話をしてきた」

ある日を境に、私の心は変化したのだという。
しかしそれがいつのことなのか。何が起こったのか。
私には何も思い出せない。
今日はいつもと様子が違った。
その人の話し声も、空気に含まれる湿気も、淡色に染まって切なく香るようだった。
私はいつもと同じ顔で それに気付かないふりをした。


「よくわかりません・・・けど、ありがとうございます、先生」
「うん。
 でもどうやら、私の助けはもう必要ないみたいだ」

ぽつりぽつりと 雨音が聞こえる。
私の心はなにも思わず
窓の外を見ると 小さな黒い影がいた。

「ありがとうございました」

私はその黒い影に誘われるように
ゆっくりと階段を上った。
雨音の中に、激しい息遣いや 床と靴の擦れる音、
誰かの涙や叫び声が聞こえたような。



* * *


はあ はあ はあ
誰かが苦しそうに息をしている。
私が苦しそうに息をしている。
走っている。
病院も学校も、廊下は走っちゃいけないのに。
止まった。
苦しそう。
また走り出した。
どうして走っているんだろう。
振り向くと誰かが追いかけてきた。
逃げる。
どうしてだろう、私はあの人に止めて欲しいのに。



* * *


そこは暗く 冷たく湿った空気で満たされていた。
目の前の錆びた扉は
重く のしかかってくるような重圧感。
そっとノブに触れる、と、あまりの冷たさに声が出た。
とっさに離してしまった手を、もう一度ノブにあてがう。
ぐっと握り、ゆっくりと回して押す。
扉が開いた。
ざああああああああ
強くなる雨音。
私は外へ踏み出した。



* * *


行き止まりの金網を越えてしまった。
強い雨が私を打つ。
どれくらい私はそこにいたのだろう。
気付くと、隣に 誰かがいた。
私を追いかけてきた人。
いつのまに金網を越えたのだろう。

やめて。
こっちへ来て。
誰もあなたのことを
いらないなんて思っていないから。
お願い。
私は

ぼーっとしている。
頭の中に重い綿を詰め込まれたみたい。
たくさん、大切な人が言葉をくれたのに
どうして私はそんなふうに
灰色に曇った世界を見下ろしているのだろう。
私が、私から 離れていく。



* * *


金網に手をかけた。
何故か涙が止まらなかった。
言いようの無い喪失感。


「濡れるよ」

声が聞こえた。
振り返ると、四角い眼鏡の先生が立っていた。

「先生、私、思い出したんです」

痛む胸をぎゅっと押さえた。

「あの人は、どうなったんですか」

聞くまでもなかった。
数ヶ月前に目覚め、既にあの日から4年の年月が経過したのだと知らされた。
何事もなかったかのように話す私に、家族は喜んで涙を流していた。
そして、その歓びの輪の中にあの人はいなかった。
誰もあの人のことを話さなかった。
つまり

「あの日、あなたを助けようと飛び降りて、そのまま・・・」

黒い影が飛び去った。


* * *


「声・・・が?」
「ああ。あの子はもうダメだ」
「そんな・・・どうしてなの? あんなに頑張っていたのに」
「忘れろ! ・・・まだ子どもじゃないか。これから先の未来なんていくらでもある」


夕日が水面を照らしていた。
川沿いの土手は水の匂いが風に乗る。
いつものお気に入りの場所に、私は腰掛けていた。

「寂しいよ。最近ぜんぜん歌わないんだね」

いつの間にか隣にあの人がいた。
風みたいに現れて、私の歌を聴いてくれた人。
初めて私の夢を応援してくれた人。
でも、もうそれも終わり。

(歌わないんじゃなくて)
「えっ?」

そんなに私の声は小さかったのだろうか。
どれだけたくさん歌っても、私の声は誰にも届いていなかった。

『歌わないんじゃなくて、もう歌えないの』

私は地面を指差した。

「・・・なんで?」

『歌う意味がわからなくなったの。
お父さんもお母さんも、私が歌うことを応援してくれてた。
ずっとそう思ってたけど・・・でも違ったみたい。
何か違うの。
私の歌を聞いてくれるのに、私の声を聞いてくれないんだ。
ある日突然それに気付いて、そしたらもう、歌えなくなっちゃった』

「私はちゃんと聴くから。だから、歌って。そんな風に終わるのなんてイヤだよ」

『もう 疲れた』

あしもとの砂にそれだけ書くと、私はじっと川を見つめているだけだった。

それから、私の心はどんどん力を失っていった。
楽しいという感覚が麻痺していった。
何かをしたいと思うことがなくなった。
食べることさえ。
そしてそんな私を心配そうに見る両親の目がまるで失望の色に染まっているかのような気がして、
自分がここにいてはいけないような、そんな思いが心を満たしていった。


病室の窓を、雨が伝った。
風は無いようだった。
雨はただまっすぐに――落ちていった。



* * *



「ずっとあの人が見守っていてくれたような・・・そんな気がするんです」


雨はいつの間にか上っていた。
雲間から僅かに覗く青空。
灰色の雲を割って現れた空は 青かった。



「先生、私は救われたんでしょうか」



遠くで鳥の声が聞こえた。








作者 シーズン



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